昭和五十六年五月二十八日 朝の御理解
御理解第三十六節
「日本国中のあらゆる神を皆信心すると云うがそれは余りの信心ぢゃ人に物を頼むにも一人に任すとその人が力を入れて世話をして呉れるが多くの人に頼めば相談にくれて物事捗らず大工を雇うても棟梁が無ければならぬ草木でも一つぢゃ神信心もこの一心を出すと直ぐおかげが受けられる」
この一心を出すと直ぐおかげが受けられると、こうある。皆さんの場合でもこうして合楽通いをなさるのですから まあ合楽一心と定めてあろうと思うです。だからすぐにおかげが受けられるというのは、その一心の定め所です。私は金光教一本だと、しかも合楽に一心だと云うても その一心のね、極め所、一心のその焦点がね、間違いなく定められるとそれこそ、すぐにおかげが受けられる。ね、昨日私 研修の後に今度 あいよかけよの という御本が信徒会で全国に信徒会で出ております。皆さんもまあ読んでおられると思いますが、あれに合楽理念を掲載したいと、その合楽理念を二十枚位のまあ、まとめて書いてくれというお話があっとりましたそうですから 若先生が内の修業生の先生方に一人一人にその合楽理念を、あんたが頂いとる合楽理念をまとめてみろと云うて、それで皆ここへ提出してございます。二十枚というのが だんだん書き出したら三十六枚も書いとる人があるんです。それを一人一人まあ読ませて頂いてから、どれがどうとは云われん まあ本当にやっぱし合楽で其の事だけに専念しておるから見事にその合楽理念をまとめて、そしてシン所をぴしっとキャッチしながら、しかも大変文章もすばらしい文章で書き表わしてございます。だから此れ程の事というか、皆さんもそれこそまあ合楽理念にもとづく信心の稽古をなさっておられるのですから、まあ まとめてみろうとしたら、まとめられるに違いないですが、これをその合楽理念を言わばマスターしたというだけではいかんのです。そのいうならばシン所というかね、まあ合楽理念をだんだん稽古さして頂いておると、結論は一切が神愛。この世には難儀というものは無いと悟る所にあるんです。
勿論おかげは和賀心ですけれども、その和賀心に至る過程を合楽理念によって、いうならあらゆる角度から説いてあるんです。
もう一人一人そのすばらしい表現でしてございます。だからマスターしただけではなくて本当に神愛だと分かる所まで本当に、成程合楽理念をもってすればこのように、自分の心が変わって行く。
和賀心というのは なかなかです、けれども何時の間にか和賀心に変わっていけれるという程しの一心を、合楽理念に向けなければならんのです。一心と定めるね。そりゃもう合楽教会一心に定めたというだけではなくて、その合楽理念をマスターするだけではなくて、それを実験実証して、そしてぎりぎりの所 一切神愛と悟らしてもらうという所にあるわけです。
昨日丁度研修も済んでから読んでもらっておる時に、時間がちょっと長くなり、いつも四時半に下るんですけれども、五時頃でした鞍手の柴田さんが親子で参って見えました。今度息子さんが大学の受験を致しましたけれども通りませんでした。それでまあいろいろ考えた末に、アメリカに留学すると言い出した。お母さんとしてはそげな事を思い立ってから、まあ一年浪人してからでも又受けたらえゝぢゃないかと、しかもなら留学というと二百万三百万はすぐお金もいる事だしと云うて親子対立になった。
それでもどうでも行きたい。朝方から息子さんがお夢を頂いた。誰からかは分からんけれども、このタキシードの、とも 儀式の時着る洋服ですよね ようなどちらともつかぬけれども、それをこう一着頂いたお知らせを頂いた。どうもそのアメリカ行きに関係しとるような感じがするわけです。それでまあお母さんと一緒にまあ、お参りをしてきて御神意を伺ったんです。だから親が子を思うと、思う情念というか思いは 私は柴田さんなんか一人息子でもありますし、本当に息子の幸せを願わん者はありませんけれどもね、
一生懸命。そのアメリカまで行かんでん、まあこちらで行けれる道があると、親としては思う。手は届かない遠い所にやるという事はやっぱり心もとないという事もございましょう。それで私はまあ柴田さんに申しました事ですけれども、もう親の思いというのは、まあこれだけだよと、ね 親の思いはいうなら千も万もと云うてもね、神様の思いというのは、もっともっと深くて大きいよと私は申しました。だからこりゃ神様の思い、例えばそん為には英語の勉強をせんならん、ならその行くまでにまあ段取りよう順調に、事が進むならこりゃお母さんも一つ、自分の思いじゃない、神様の願いが成就して行くと思うて、ここは例えば神様にその二百万、三百万かかる、それよりかそれだけの事を神様の事にお供えした方がよかとお母さんはこういうわけ、そしてあんたは まあこちらで勉強せろとこういう。けれども息子はそうぢゃない。だから私は其の事をお届けされましたから、神様は二百万 三百万ならお供えをする事を喜びなさる神様ぢゃない。それこそ神様の願いがこの氏子の為に、成就するという事の方を取られるに違いはない。親の思いがいうならば百ならば神様の思いは千も万もの大きさにあるのであるから、こりゃお母さん自身が親の思いを捨てて、神様の思いに、が成就するようにと、いう願いを持ってするならば、ここにもし行けんものならば順調さがくずれるだろう。もし神様が許されるのなら、そこに順調さが出る事であろう。というてまあ話した事です。ね、所がなかなか思いが至りませんから、私は昨日お取次さして頂いた事の話をさせて頂きました。というのは、椛目の中島さんが昨日の朝参拝をしてみえて、先達てのお月次祭の晩に長男が今年学院を卒業して帰って来とります。泰郎君です。弟が力と云います、その力君が久商を今年卒業して目出度くいい所へ就職のおかげを頂いた。
一人の息子はお道の教師になっとる、次の息子は学校卒業して就職したから、これからは親も少しは楽になろう、親の云う事を聞いてくれると、こう思い込んどった所が、親の云う事をなかなか聞かん。もうほんな会社に勤めたばっかりなのに、皆が自動車を買うたから僕も買うという。そして僕は椛目よりか久留米の方へ、どこか下宿するといったような事を言い出した。それでまあお母さんとしてはその まあ親の思いどうりにならんもんだからね、長男のいわば泰郎先生に相談をした。お月次祭がすんでの事ですから、もう時間をかけてゆっくり泰朗君の話を聞いている中に、ね 本当そうだなあと どういう話をしたか内容は詳しく聞きませんけれども、兎に角お母さんお取り次を頂いてからの力の就職であり、おかげを受けておる事であるから、そりばああしちゃいかん、こうすると良いと思うたら 合楽に御縁を頂いとる お取り次を頂いとる値打ちはなかぢゃないねと云うた。たとえ力が自分が働いて自動車を買うと云なら買うてもいいぢゃないかと。ね、椛目ぢゃ遠いからあちらのほうえ下宿すると云うなら下宿してもいいぢゃないかと、聞けばいちいち もうそれこそ良く分かっておるわけですね、合楽理念をいわばマスターしとるから そうどこぢゃないと分かるけれども、すっきりしない。もうお母さん今夜はおそいから、もうここに泊まって朝の御祈念どん頂いて帰んなさい、と云うたけれども、いや帰らにゃと云うて帰る。だから合楽のお玄関の所まで自転車で来とりますから 送り出して来て、そしてお母さんが帰っていく あの道路に出る所でひょっと後をふりむいたら、まあだ後から泰朗先生がこうやって御祈念しよった。それを見た途端にもう感動してね、もう兎に角今まで分かっちゃおるけれども、すっきりしなかったものがいっぺんにすっきりしたというお届けが昨日ございました。
不思議ですね。分かっただけぢゃいかんごたるですばい。そこに感動と共に実験が出け実証が出けるんです。もうその話を聞いて、柴田さんがいっぺんに自分も感動されたんです。ね、でいよいよ親先生まかせという事になったわけでございますが 私はこのお取り次をさせて頂いて、それを思うて次に参ってきた人に、話そうと思うけれども、胸がつまって話せなかったです。どうしてこんなに思うと 午前中座っとる間感動、午前中だけぢゃない 昨日は一日その事を思うと感動するんですよね。もうそれこそ教祖のあのう覚えの中にもありますように、それこそ嬉しいやら、悲しいやらという涙が込み上げてくるんです。どういうこつぢゃろうかとねえ、それだけのことなんだけれども、どういう事であろうかと思わせて頂いたら 神様から「肥山」(ひやま)と頂いたんです。肥山というのは肥えてという字ね、肥え生えというあの肥えです。月を書いて巴ですかね、肥 山というのは山です。これを「ひやま」という、読むわけ。ははあ、だから私の心にこんなに感動が続くんだなあと思ったんですけれども、ね 神様の願いというのは、それこそ今日の御理解でいうならばね、神様一心、金光さま一心、合楽一心と心を定めてね、すぐにおかげが受けられるというような、おかげの世界に住まわせて頂く、いうならば一人でにものが出けるようなおかげも頂かせたい、というのが神の願いである。そんならばいうならば常日頃に心を肥やしておかなければならない。心が肥えるという事はどういう事なんだろう。例えば自分の思いには、はまらない。ねいうならば自分乃心にはもう持ちこたえる事は出来ない程しの例えば問題、中島さんであるならば、なら息子がようやく卒業した、おかげで就職のおかげを頂いた。これからちった楽になるという所、楽になるどころか反対の方へ、親の思いと反対に行こうとする。
どげん考えてもまあその、それをおかげと頂けない。ね、長男の話を聞かせて頂いて、そりゃそうばってんと分かる事は分かっとる。ね、けれどもね、それがいわば心ん中に喜びがこう湧いて来た。それが感動になって来た時 今まで頂いたいうなら、いままでマスターした合楽理念が、いっぺんに実験実証さしてもらおうという事になって来た。ほんに泰朗が云うとおりたいと、こう思うたら心がすっきりしたという事だけであった。ね、私はそれが肥山、それが肥え、それがいよいよ心がそういう頂き方が、心が豊かになってそういう事が、いわば ね次々と実験実証されていくに従って心が、いよいよ豊かになり大きくなり、お取り次を頂いての事であるから右であろうが、左であろうがもう、そこはまかせきったという所まで行かなければ私は一心を立てたとは云えないと思うです。ね、
一心を立つればとおっしゃるのは そういう一心だと思うんです私は合楽から動かんというだけの事ぢゃなくてです、自分の心にどういう事であっても自分のそれこそ、にがい思いをする、苦しい思いをする、どうでも自分の胸には はばからないといったようなもんでも、それを心の中に治めていけれる心こそが、いよいよ心が豊かに肥えて行くことであり いわばそれが肥えて行く為の修業だよという事なんです。山といや、山とは修業とおっしゃる。
心を肥やして行く修業。そこを本当にすっきりと分かったという事が神様の喜びであり、感動である。どうぞ神様が喜んで頂くような信心をと云うけれども、神様が喜んで頂く信心とはそういう受け方の出けれる信心を、神様が喜んで下さるというのであり又一心を立てるというならば、そういう所に焦点を置いて信心の稽古をさせて頂くとですね、柴田さんにおいてしかり、昨日の中島さんのお話においてしかり、そういう いうならば親の思いにはばからないような事であっても、はあ神様の思いがここに成就していきよるんだと思うたら、むしろお礼が云えれるという事になった。
そういう受け方がこころをいよいよ豊かに大きくして行くという事だと云う事であります。
どうぞ